社長になるには
- 2016/02/21
- 01:05
脱サラして5年強になります。
創業してから最初から一応株式会社なので「社長」である事は間違い無いです。
僕の中で社長って言うと社員が何人も居て先進的な事をを指示する人、判断する人だと思ってました。
色々な友人、知人は僕の事を「社長」と言います。
今の時代「社長」と呼ばれたかったら10万円程手持ちがあれば呼んでもらう事が誰でも出来ます。
株式会社は資本金1円~ですので。
1円以外で必要なのは登記費用とかだけです。
銀行も仕入れ先もある程度人間関係のある得意先も皆「社長」と呼んでくれます。
創業当初は照れ臭かったですが、今は普通です。
僕がなんで会社を起したかですが、僕の父親の存在があります。
父は本当に幼少の時から貧乏でした。
でも上に行ってやると言うバイタリティ溢れる男だったと想像します。
僕と違い物凄く真面目で酒も付き合い程度しか飲まず、「遊ぶ」と言う事を本当に知らない男でした。
僕は魚釣りが大好きです。
針と糸を結ぶ「内掛け結び」を教えてくれたのは父でした。
父は「遊び」をしらず必死で毎日仕事をしてる中、息子には人生を楽しんで欲しいといっちょがみでキャンプ用品や釣り道具を買うのですがやはり仕事人間でした。
魚釣りも最初の数回は父親に必死で連れてって欲しいと懇願し数度一緒に行きましたが要領がわかると一人でや友人と行くようになりました。
僕は遊ぶ事が大好きです。お酒も大好きです。その他色々大好きです。
今考えると自分が出来なかった魚釣りやピアノ、色々な美味しい物を食べる等沢山の事を僕にはバランス良くして欲しかったんだと思います。
小さい時から父は厳しく、今も覚えてるのが父が家に帰ってくるとき家の駐車場に駐車してるエンジン音がすると急いで布団に走り眠くも無いのに怖いから寝たふりしてました。
本当に怖い父でした。
でも共同経営ながら大証二部ですが会社を上場させ尊敬してました。
大学時代のある日、家に帰るとダイニングで家族がみんな落ち込んでました。
父が癌だと知らされました。
悲しいとか無く、ビックリしました。
胃がんでした。
京大病院で手術をした際、摘出した内臓が透明のポリ袋に入ってて触らせてもらった生暖かさ、感触は今も忘れてません。
今でも肌で感じた一番の父のぬくもりはそのポリ袋に入ってる内臓の暖かさです。
父は数年後に死にました。
危篤の一報を聞いた日は、たまたま友人に車をかしており、東京都内に住んでました。
新幹線も終わった時間ではやる気持ちを思いっきり友人に早く車返せ!!って怒鳴ってたのを覚えてます。
違反ですが、思いっきり高速を飛ばして京都まで帰りました。
ビックリするほど車を飛ばしました。
帰った時には冷たくなっており意味が判らなかったです。
誰もがだと思いますが二人で酒も飲みたかったし悩み事も相談したかったし色んな事話せば良かったと今も心底後悔してます。
死ぬ数週間前にたまたま今の僕の奥さんを実家に連れていきました。
あんな子と結婚してくれたらいいのになぁと言ってくれてたそうです。
何かの勘違いで付き合っても無いのに僕が女の子を泊りで実家に連れて行ってしまったと思ったらしく父親に久々に怒られました。
その時色んな事を話しました。
死ぬ1か月程前の事です。
当時の彼女(今の嫁さん)の事から始まり仕事の事、その他の事色んな事を話しました。
抗がん剤も意味なく、死を待つのみのモルヒネでフラフラになってる父と本当に色んな事を話しました。
人生で一番父と本音で話した時間でした。
死に目には会えなかったですがそんな時間を持てたのは嫁さんのおかげだと感謝してます。
僕は小さい時から夢は「社長」でした。
そんな事、父も知っているのでダメだしを沢山してくれました。
「雄策はバランスが悪い」
今も痛感してる言葉ですが自分でもバランスの悪さに泣きそうになります。
でも前向きな僕はちっぽけですが人生の設計図に書いてた20代で会社を起すと言う夢の為東京でサラリーマンをしながら色々な業界にアンテナを張ってました。
出張でよく北海道の網走や北見市に行ってました。
お酒の好きな僕は各地の酒場で一人でお酒を飲み色々な人と知り合い話しました。
そんな中、北見のスナックで漁師さんと農家さんと知り合いました。
次の日の空き時間に農家さんの畑にお誘い頂いたので畑に行きました。
その農家さんは玉ねぎを有機栽培で育てておられました。
畑で掘ったばかりの玉ねぎ、皮を剥いて生で食べてみろと言われました。
内心そんなん辛くて食べれる訳無いだろ!っと思いましたがビビりながら一口食べると衝撃でした。
旨みが凄くて食べた事無い玉ねぎでした。
この玉ねぎがどうやって流通してるのか?
どうやって購入できるのか?
と農家さんに聞くと
「全部農協に出してるから北見産の玉ねぎ買ったら僕の玉ねぎがあるかもね」
と言われました。
一緒に知り合った漁師さんはちょうど僕の父親程の年で小さな漁港の親分見たいな人で物凄く僕を気に行ってくれ知り合った日と2度目の日にお姉ちゃんの居る店にやたらと連れて行ってくれました。
2度目の日に遅く迄二人で飲みお姉ちゃんの店も終わり居酒屋で二人で話すと急に漁師のおじさんから涙が溢れてきました。
理由を聞くと癌になりもう死ぬそうです。
こんな田舎の小さな漁港で無く、東京や世界に出てもっと色々な事をしたかったそうです。
バカでビッグマウスな僕は夢や希望しか持ち合わせて無く漁師のおっちゃんには眩しく見えたそうです。
もう玉ねぎの農家さんと知り合い商材にしようかと考えてた僕はその事を相談しました。
漁師のおっちゃんは人の思いをも届けられる良い仕事だと後押ししてくれました。
次に北海道に行くときは漁師のおっちゃんの携帯は解約されており亡くなったそうです。
個性ある素材(玉ねぎ)をちゃんと流通させたら面白いと思い新婚直後の僕はこの商材を独立の材料に選びました。
色々と勉強している中でもっと美味しい玉ねぎを見つけたりしてしまったので取引は少ししか無かったですがその農家さんと知り合った事、漁師のおっちゃんと知り合った事が僕の人生を変えました。
独立を決意するとすぐに前職の会社に退職の旨を伝えました。
そして新婚の僕は嫁子供を連れて京都に帰り独立しました。
なんとかかんとか赤字でも何でも5年強続けて来れました。
独立したいんやけど。
社長になりたいんやけど。
と相談を受ける事が多々あります。
頑張れよ!
と言いますが本音は辞めとけ!っと思います。
世の中そんなに甘くは無いです。
でも人生は一回です。
良い時もあれば悪い時もあります。
嬉しい事、悲しい事、今回のブログ以上に沢山経験したつもりです。
今の僕は何者でも無く恐らく、今、清算をしたらワーストの方に入ると思います。
お金は無いですが財産は出来ました。
家族、お客さん、仕入れ先さん、友人、その他様々な人。
野菜なんて何の関係も無く始めた事ですがなんだかんだで色々な人に支えられてます。
僕はバカなのでやりたい夢や野望が沢山あります。
小さい頃からの夢である「本当の社長」になれるようにもう少し頑張ろうと思います。
創業してから最初から一応株式会社なので「社長」である事は間違い無いです。
僕の中で社長って言うと社員が何人も居て先進的な事をを指示する人、判断する人だと思ってました。
色々な友人、知人は僕の事を「社長」と言います。
今の時代「社長」と呼ばれたかったら10万円程手持ちがあれば呼んでもらう事が誰でも出来ます。
株式会社は資本金1円~ですので。
1円以外で必要なのは登記費用とかだけです。
銀行も仕入れ先もある程度人間関係のある得意先も皆「社長」と呼んでくれます。
創業当初は照れ臭かったですが、今は普通です。
僕がなんで会社を起したかですが、僕の父親の存在があります。
父は本当に幼少の時から貧乏でした。
でも上に行ってやると言うバイタリティ溢れる男だったと想像します。
僕と違い物凄く真面目で酒も付き合い程度しか飲まず、「遊ぶ」と言う事を本当に知らない男でした。
僕は魚釣りが大好きです。
針と糸を結ぶ「内掛け結び」を教えてくれたのは父でした。
父は「遊び」をしらず必死で毎日仕事をしてる中、息子には人生を楽しんで欲しいといっちょがみでキャンプ用品や釣り道具を買うのですがやはり仕事人間でした。
魚釣りも最初の数回は父親に必死で連れてって欲しいと懇願し数度一緒に行きましたが要領がわかると一人でや友人と行くようになりました。
僕は遊ぶ事が大好きです。お酒も大好きです。その他色々大好きです。
今考えると自分が出来なかった魚釣りやピアノ、色々な美味しい物を食べる等沢山の事を僕にはバランス良くして欲しかったんだと思います。
小さい時から父は厳しく、今も覚えてるのが父が家に帰ってくるとき家の駐車場に駐車してるエンジン音がすると急いで布団に走り眠くも無いのに怖いから寝たふりしてました。
本当に怖い父でした。
でも共同経営ながら大証二部ですが会社を上場させ尊敬してました。
大学時代のある日、家に帰るとダイニングで家族がみんな落ち込んでました。
父が癌だと知らされました。
悲しいとか無く、ビックリしました。
胃がんでした。
京大病院で手術をした際、摘出した内臓が透明のポリ袋に入ってて触らせてもらった生暖かさ、感触は今も忘れてません。
今でも肌で感じた一番の父のぬくもりはそのポリ袋に入ってる内臓の暖かさです。
父は数年後に死にました。
危篤の一報を聞いた日は、たまたま友人に車をかしており、東京都内に住んでました。
新幹線も終わった時間ではやる気持ちを思いっきり友人に早く車返せ!!って怒鳴ってたのを覚えてます。
違反ですが、思いっきり高速を飛ばして京都まで帰りました。
ビックリするほど車を飛ばしました。
帰った時には冷たくなっており意味が判らなかったです。
誰もがだと思いますが二人で酒も飲みたかったし悩み事も相談したかったし色んな事話せば良かったと今も心底後悔してます。
死ぬ数週間前にたまたま今の僕の奥さんを実家に連れていきました。
あんな子と結婚してくれたらいいのになぁと言ってくれてたそうです。
何かの勘違いで付き合っても無いのに僕が女の子を泊りで実家に連れて行ってしまったと思ったらしく父親に久々に怒られました。
その時色んな事を話しました。
死ぬ1か月程前の事です。
当時の彼女(今の嫁さん)の事から始まり仕事の事、その他の事色んな事を話しました。
抗がん剤も意味なく、死を待つのみのモルヒネでフラフラになってる父と本当に色んな事を話しました。
人生で一番父と本音で話した時間でした。
死に目には会えなかったですがそんな時間を持てたのは嫁さんのおかげだと感謝してます。
僕は小さい時から夢は「社長」でした。
そんな事、父も知っているのでダメだしを沢山してくれました。
「雄策はバランスが悪い」
今も痛感してる言葉ですが自分でもバランスの悪さに泣きそうになります。
でも前向きな僕はちっぽけですが人生の設計図に書いてた20代で会社を起すと言う夢の為東京でサラリーマンをしながら色々な業界にアンテナを張ってました。
出張でよく北海道の網走や北見市に行ってました。
お酒の好きな僕は各地の酒場で一人でお酒を飲み色々な人と知り合い話しました。
そんな中、北見のスナックで漁師さんと農家さんと知り合いました。
次の日の空き時間に農家さんの畑にお誘い頂いたので畑に行きました。
その農家さんは玉ねぎを有機栽培で育てておられました。
畑で掘ったばかりの玉ねぎ、皮を剥いて生で食べてみろと言われました。
内心そんなん辛くて食べれる訳無いだろ!っと思いましたがビビりながら一口食べると衝撃でした。
旨みが凄くて食べた事無い玉ねぎでした。
この玉ねぎがどうやって流通してるのか?
どうやって購入できるのか?
と農家さんに聞くと
「全部農協に出してるから北見産の玉ねぎ買ったら僕の玉ねぎがあるかもね」
と言われました。
一緒に知り合った漁師さんはちょうど僕の父親程の年で小さな漁港の親分見たいな人で物凄く僕を気に行ってくれ知り合った日と2度目の日にお姉ちゃんの居る店にやたらと連れて行ってくれました。
2度目の日に遅く迄二人で飲みお姉ちゃんの店も終わり居酒屋で二人で話すと急に漁師のおじさんから涙が溢れてきました。
理由を聞くと癌になりもう死ぬそうです。
こんな田舎の小さな漁港で無く、東京や世界に出てもっと色々な事をしたかったそうです。
バカでビッグマウスな僕は夢や希望しか持ち合わせて無く漁師のおっちゃんには眩しく見えたそうです。
もう玉ねぎの農家さんと知り合い商材にしようかと考えてた僕はその事を相談しました。
漁師のおっちゃんは人の思いをも届けられる良い仕事だと後押ししてくれました。
次に北海道に行くときは漁師のおっちゃんの携帯は解約されており亡くなったそうです。
個性ある素材(玉ねぎ)をちゃんと流通させたら面白いと思い新婚直後の僕はこの商材を独立の材料に選びました。
色々と勉強している中でもっと美味しい玉ねぎを見つけたりしてしまったので取引は少ししか無かったですがその農家さんと知り合った事、漁師のおっちゃんと知り合った事が僕の人生を変えました。
独立を決意するとすぐに前職の会社に退職の旨を伝えました。
そして新婚の僕は嫁子供を連れて京都に帰り独立しました。
なんとかかんとか赤字でも何でも5年強続けて来れました。
独立したいんやけど。
社長になりたいんやけど。
と相談を受ける事が多々あります。
頑張れよ!
と言いますが本音は辞めとけ!っと思います。
世の中そんなに甘くは無いです。
でも人生は一回です。
良い時もあれば悪い時もあります。
嬉しい事、悲しい事、今回のブログ以上に沢山経験したつもりです。
今の僕は何者でも無く恐らく、今、清算をしたらワーストの方に入ると思います。
お金は無いですが財産は出来ました。
家族、お客さん、仕入れ先さん、友人、その他様々な人。
野菜なんて何の関係も無く始めた事ですがなんだかんだで色々な人に支えられてます。
僕はバカなのでやりたい夢や野望が沢山あります。
小さい頃からの夢である「本当の社長」になれるようにもう少し頑張ろうと思います。